ジョルジュ・ルオー
ジョルジュ・ルオー(1871-1958 フランス)は、ステンドグラス職人のもとで働き始めた後、本格的な絵画を志し、象徴主義の画家ギュスターヴ・モローに師事しました。門下には、マティスやマルケなどのフォーヴィストたちが育ち、彼らの活動に刺激を受けながらも、ルオー自らはキリストの受難や聖書の場面をマチエールにこだわって描き、道化師やサーカスの人物たちをテーマに取り上げ、独自の世界を築いていきます。 ルオーの作品は、早くから日本でも紹介され、現在にいたるまで多くの人々の心をとらえてきました。本国以外でこれほどルオーを愛し、 その作品を大切にしてきた国はないといえるでしょう。これまで国内に複数の優れたルオー・コレクションが形成されてきたことも、この 画家が日本人に心から受け入れられてきた興味深い証といえます。画商ヴォラールの勧めもあって版画も多数制作しました。
ジョルジュ・ルオーのデータ
- 性別
- 男性
- 歿日
- 1958年(昭和33年) 2月13日(木)
- 勲章
- グレゴリオ大勲章
- 鑑定機関・鑑定人
- ジョルジュ・ルオー財団
- 師
- ギュスターヴ・モロー
- メイン・テーマ
- サーカス
- キリスト教
ジョルジュ・ルオーの略歴
- 1871年(明治4年)
パリで砲撃の中生まれる。父アレクサンドルは家具職人。
- 1885年(明治18年)
父の勧めでステンドグラス職人のもとに徒弟奉公に出る。古いガラスの修復に従事しつつ、夜は装飾美術学校で素描を学ぶ。
- 1890年(明治23年)
本格的に画家を志し、エコール・デ・ボザール(国立美術学校)に入学、ここでマティスらと知り合った。
- 1892年(明治25年)
ドローネの後任にギュスターヴ・モローが就任。キリスト教主題の作品をレンブラント風に描く。
- 1894年(明治27年)
「博士たちの間の幼きイエス」によりシュナヴァ-ル賞受賞。
- 1895年(明治28年)
ローマ賞に再度応募するが落選し、師ギュスターヴ・モローの勧めに従い美術学校を退学。
- 1898年(明治31年)
ギュスターヴ・モロー死去。
- 1903年(明治36年)
ギュスターヴ・モローの旧居を開放したギュスターヴ・モロー美術館の初代館長となる。この頃から道化師や娼婦を描き始める。
- 1904年(明治37年)
サロン・ドートンヌに作品を出品。
- 1913年(大正2年)
ルオーの陶器に興味を抱いた画商ヴォラ-ルが、今後の全作品を購入するよう申し出る。
- 1917年(大正6年)
画商ヴォラールはルオーと契約を結び、ルオーの「全作品」の所有権はヴォラールにあるものとされたが、この契約が後に裁判沙汰の種になる。
- 1918年(大正7年)
油彩画に専念。「キリストの受難」等宗教的主題が多くなり、色彩は鮮やかに、マティエールは豊かさを増し、表現はさらに凝縮されて重々しくなる。
- 1924年(大正13年)
ドリュエ画廊で大回顧展開催。
- 1927年(昭和2年)
銅版画集「ミセレーレ」が完成。
1948年刊行。- 1929年(昭和4年)
日本人実業家の福島繁太郎と最初に出会う。
- 1930年(昭和5年)
版画集『流れる星のサーカス』、『受難』を制作。
- 1937年(昭和12年)
パリ市プティ・パレ美術館で回顧展開催。
- 1941年(昭和16年)
アメリカ各地で巡回展。以後青を基調とする厚塗りで芳酵なマティエールの小型の作品を描く。
- 1951年(昭和26年)
黄色味を帯びたキリスト教的風景画が表れ、平和で神秘的な情景が多数描かれる。
- 1955年(昭和30年)
ローマ法皇ピウスよりグレゴリオ大勲章を授与される。
- 1958年(昭和33年)
2月13日(木)、逝去。サン・ジェルマン・デ・プレ教会で国葬。