奥村土牛
百歳を超える長寿を画業に捧げた日本画の巨匠
1889年明治22年 〜 1990年平成2年
現代日本画壇の最高峰に位置した代表的な日本画家の一人。
号である「土牛」は、出版社を営んでいた父が寒山詩の一節「土牛石田を耕す」から引用してつけられた。 刷毛で胡粉などを100回とも200回ともいわれる塗り重ねをし、非常に微妙な色加減をもった作品が特徴とされる。
- 所属
- 日本美術院
- 性別
- 男性
- 誕生日
- 1889年2月18日(月)
- 歿日
- 1990年9月25日(火)
- 出身地
- 東京
- 受章
- 文化勲章
- 文化功労者
- 関係のある主な作家
- 小林古径(師)
- 梶田半古(師)
- パブリック・コレクション
- 山種美術館
- 東京国立近代美術館
- 高崎市タワー美術館
- 佐久市立近代美術館
- 主な所蔵美術館
- 奥村土牛記念美術館
- 鑑定機関・委員会
- 東京美術倶楽部鑑定委員会
年 | 主な出来事 |
---|---|
1889年明治22年 |
2月18日、東京都京橋に生まれる。 |
1905年明治38年 |
梶田半古門下となり、塾頭の小林古径の指導を受ける。 |
1906年明治39年 |
日本絵画展覧会にて「菅公の幼時」が入選。 |
1907年明治40年 |
東京勧業博覧会にて「敦盛」が入選。 |
1914年大正3年 |
半古歿後、改めて古径に師事。 |
1917年大正6年 |
父の経営する書店から「スケッチそのをりをり」を出版。 |
1920年大正9年 |
馬込の古径の画室に留守番役を兼ねて住み込み、研鑚を重ねる。 |
1923年大正12年 |
中央美術社第5回展にて「家」が中央美術賞受賞。 |
1925年大正14年 |
古径の媒酌で森仁子と結婚する。 |
1926年昭和元年 |
古径の紹介により速水御舟の研究会に参加。御舟より多くのものを学ぶ。 |
1927年昭和2年 |
再興第14回 院展にて「胡瓜畑」が初入選。 |
1929年昭和4年 |
再興第16回 院展に「蓮池」を出品。 日本美術院院友に推挙される。 |
1930年昭和5年 |
再興第17回 院展に「枇杷と少女」を出品。 |
1932年昭和7年 |
日本美術院同人に推挙される。 |
1935年昭和10年 |
帝国美術学校(現在の武蔵野美術大学)日本画科教授に就任。 |
1936年昭和11年 |
第1回 帝国美術展で「鴨」が推奨第1位を獲得。 |
1940年昭和15年 |
急性肺炎で重体となる。 |
1944年昭和19年 |
東京美術学校日本画科の講師を務める。 |
1945年昭和20年 |
5月、空襲で家が焼け、長野県南佐久郡臼田町へ疎開。 |
1947年昭和22年 |
帝国芸術院会員となる。 |
1949年昭和24年 |
女子美術大学美術学部教授に就任。 |
1951年昭和26年 |
疎開先を引き払い、東京都杉並区に転居。 武蔵野美術大学教授に就任。 |
1958年昭和33年 |
日本美術院監事・評議員に就任。 |
1959年昭和34年 |
第44回 院展に「鳴門」を出品。 日本美術院理事に就任。 |
1962年昭和37年 |
文化功労者と併せて文化勲章を受章。 |
1972年昭和47年 |
第57回 院展に「醍醐」を出品。 |
1974年昭和49年 |
自伝「牛の歩み」を日本経済新聞社から出版。 |
1978年昭和53年 |
日本美術院理事長に任命される。 |
1980年昭和55年 |
東京都より名誉都民の称号が贈られる。 |
1987年昭和62年 |
山種美術館と京都市美術館において白寿記念展が開催される。 |
1988年昭和63年 |
天皇陛下より銀杯三ツ重、皇太子殿下より御所の紅白梅を賜る。 |
1990年平成2年 |
5月20日、長野県南佐久郡八ケ穂村に、奥村土牛記念美術館が開館。 9月25日、逝去。享年101歳。従三位に叙せられる。 |