ウォルト・ディズニー
アメリカ 1901年 〜 1966年
ディズニーを描く作家
ピーター・エレンショウ
ティム・ロジャーソン
ジェームス・コールマン
マニュエル・エルナンデス
ロブ・カズ
トレヴァー・カールトン
ロデル・ゴンザレス
ジョン・ロー
ジム・サルバティ
トレヴァー・メザック
ジェームス・マリガン
トビー・ブルース
ジム・ウォーレン
ミッシェル・ローレン
アイリーン・シェリ
- 性別
- 男性
- 誕生日
- 1901年12月5日(木)
- 歿日
- 1966年12月15日(木)
年 | 主な出来事 |
---|---|
1901年明治34年 |
12月5日、イリノイ州シカゴ出身。 |
1920年大正9年 |
1月、ウォルトとアイワークスはデザイン会社「ウォルト・アイワークス・カンパニー」を創立して共同経営者となった。だが設立早々にウォルトはアイワークスを置いてカンザスフィルム社にアニメーターとして雇用されてしまったので、会社は長続きしなかった。 独立して個人事務所を設立したウォルトは、フリーランスの製作者として仕事を募集、カンザスシティーの事業家フランク・L・ニューマンからの出資で初のオリジナルアニメ作品『ニューマン劇場のお笑い漫画』を制作した。質の高い娯楽作品は良い評価を得て、ウォルトの元にはアニメ制作の仕事が順調に舞い込む様になった。 個人製作では事業の拡大に追いつかないと判断したウォルトは個人事務所からアニメ制作会社へと会社を拡張するべく、アブ・アイワークスを初めとする数人のアニメーター仲間を呼び寄せた。 弱冠20歳のウォルトにとってこのLaugh O'Gram Studio社は最初の成功となったが、制作に没頭する余りに資金のやり繰りが乱雑になり、最終的にスタジオは倒産してしまった。 これはウォルトに経営面のサポート役を立てる事の必要性を痛感させた。倒産後の整理を終えたウォルトは再起を図って映画産業の本場ハリウッドへと移住した。 |
1955年昭和30年 |
カリフォルニア州アナハイムにて、150エーカーの土地を購入。自らの名を冠したテーマパークであるディズニーランドを開設し、現在まで続く多面的な経営の基盤を作った。その際、ディズニーが参考にしたのは、カリフォルニア州オークランドに1950年に作られた、最初の子供用遊園地「チルドレンズ・フェアリーランド」と、デンマークに1843年に作られた遊園地チボリ公園である。同時期に放送されたTV番組「ディズニーランド」には自ら出演し、アトラクションやアニメ作品の紹介などを行った |
1966年昭和41年 |
12月15日、逝去。 アカデミー賞の個人受賞最多記録をもつ。 |