アンディ・ウォーホル
ポップアートの旗手
アメリカ 1928年 〜 1987年
年 | 主な出来事 |
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1928年昭和3年 |
8月6日、ペンシルバニア州、マッキンポートに生まれる。幼い頃から絵が上手であったが、恐慌の影響で家庭は非常に貧しかったそうです。体が虚弱だったウォーホルは家でラジオを聞いたり、本やマンガを読むことが多く、スーパーマン、ポパイ、バットマンに憧れる絵が得意な少年だった。 |
1942年昭和17年 |
チェコからの移民、炭坑夫として働く父死亡。 |
1945年昭和20年 |
ピッツバーグ、カーネギー工科大に通う。絵画等を専攻する。 |
1949年昭和24年 |
21歳 ニューヨークに出る。イラストの仕事をする。 |
1950年昭和25年 |
アイ・ミラー社の靴の広告、雑誌「ヴォーグ」「ハーパースバザー」の広告イラストをはじめコロムビアのレコードジャケット、ティファニー宝石店のウィンド装飾などを手がけ、商業デザインで地歩を固める。 |
1952年昭和27年 |
初の個展をニューヨーク、ヒューゴー画廊で開催。「ニューヨーカー」派の作家トルーマン・カポーティーの小説を題材としたドゥローイング15点を出品。初めてアンディ・ウォーホルと名乗る。 |
1954年昭和29年 |
イラスト集「サムという名の25匹の猫と1匹の青い仔猫ちゃん」を刊行。 |
1955年昭和30年 |
27歳の時ミラー靴店が毎週新聞に掲載する宣伝のデザインの注文を受け、その後の宣伝で賞を取ったりすることで名が知れ渡り、展覧会で成功を収めるようになる。 |
1957年昭和32年 |
靴の広告デザインでアート・ディレクターズ・クラブ・メダルを受賞。 |
1960年昭和35年 |
32歳 30年代の探偵漫画「ディック・トレイシー」シリーズなどの連続漫画や広告からヒントを得、題材にして絵を描く。 |
1962年昭和37年 |
画商で室内装飾家のミュリエル・レイトウからキャンベル・スープ缶とドル紙幣を描くアイデアを買い取り、ドル札、キャンベル・スープ、他にはマリリン、惨事シリーズを制作する。 ファクトリーと呼ぶアトリエを持つ。映画製作も始める。 個展(キャンベル缶シリーズ)をロサンジェルス、フェラス画廊で開催するが散々な評判であった。 |
1964年昭和39年 |
スケールの拡大とダブル・イメージの技法を試みる。 |
1968年昭和43年 |
40歳 銃で打たれ重傷を負う。 |
1969年昭和44年 |
70年代には社交界からの注文で多くのポートレートを制作しています。ミック・ジャガー、マイケル・ジャクソン、キャロライン王女など幅広い分野の有名人の依頼をこなしています。 |
1970年昭和45年 |
再びシルクスクリーンによる制作を開始。自ら撮った著名な有名人写真による肖像画を多作する。「ライフ」誌は、60年代に最も影響力のあった人物として、ビートルズとウォーホールを挙げる。 |
1971年昭和46年 |
日本で最初の個展 |
1983年昭和58年 |
ファクトリーを移転。冬季オリンピック・サラエボ大会のポスターを制作。 |
1987年昭和62年 |
2月22日、59歳 ニューヨークの病院で手術を受けたあと死亡。 |