パブロ・ピカソ
20世紀美術の巨匠。画家でありながら、彫刻、陶芸、版画、舞台装置、タピストリーといった幅広い分野で活躍し、どの分野でも第一人者と呼ぶにふさわしい高い質と独創性に富んだ作品を残した。制作量でも類を見ないほど膨大。20世紀における造形上のもっとも大きな変革であったキュビスムの創始者として知られるが、彼の様式は写実主義からシュールレアリズムに至るまで幅広い。「変革の画家」と名付けられるほど技法も主題もめまぐるしく変化したが、92年間の生涯を通じ、人間的主題を中心にエネルギッシュに描き続けた。
パブロ・ピカソのデータ
- 性別
- 男性
- 誕生日
- 1881年(明治14年) 10月25日(火)
- 歿日
- 1973年(昭和48年) 4月8日(日)
- 美術館
- Musee National Picasso, Paris (国立ピカソ美術館、フランス、パリ)
- Museo Picasso Malaga(ピカソ美術館、スペイン、マラガ)
- Museo Picasso(ピカソ美術館、スペイン、バルセロナ)
- 鑑定機関・鑑定人
- Pablo Picasso Authentication
- ホセ・ルイス・ブラスコ
- マリア・ピカソ・ロペス
- 本名
- パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・フアン・ネポムセーノ・マリーア・デ・ロス・レメディオス・クリスピアーノ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダード
パブロ・ピカソの略歴
- 1881年(明治14年)
10月25日(火)、スペイン南部マラガで生まれる。
- 1891年(明治24年)
ガリシア地方ラ・コルーニャに移住。父ドン・ホセは同市ダ・グワルダ工芸学校美術教師、地域の美術館の学芸員に赴任。
- 1892年(明治25年)
ラ・コルーニャの美術学校に入学。
- 1894年(明治27年)
父ドン・ホセは絵の道具を息子に譲り自らが描くことをやめる。一説に息子の才能への賞賛が原因とされる
- 1895年(明治28年)
バルセロナに移住、美術学校に入学。一か月の猶予のある入学製作を1日で完成させる。初期の作品は、バルセロナの小路ラ・プラタ通りのアトリエで描かれた。
- 1897年(明治30年)
父の指導のもとで描いた古典的な様式の『科学と慈愛』がマドリードで開かれた国展で佳作を受賞、マラガの地方展で金賞を受賞。
同年秋、マドリードの王立サン・フェルナンド美術アカデミーに入学。
だが、ピカソはアカデミズム・学校で学ぶことの無意味さを悟り、中退する。
プラド美術館に通い、ベラスケスらの名画の模写することで絵画の道を求めていった。- 1899年(明治32年)
バルセロナで若い芸術家(サロン)たちと交わりながら熱心に絵を描く。
- 1900年(明治33年)
パリに定住。ロートレックの影響を強く受ける。
- 1901年(明治34年)
パリで初の個展。「青の時代」の始まり。
<青の時代>‐親友カサヘマスの自殺に大きな衝撃を受け、無機顔料のプロシア青をベースとする暗青色を基調として、カサヘマス、軽業師、アルルカン、売春婦、乞食、盲人、裸婦、芸術家などを描いた。- 1904年(明治37年)
詩人のマックス・ジャコブによって〈洗濯船〉と名付けられたモンマルトルの建物に部屋を借り、パリに腰を据える。
- 1905年(明治38年)
「ばら色の時代」(Rose Period)が始まる。
<「ばら色の時代」(Rose Period)>-フェルナンド・オリヴィエという恋人を得て、明るい色調でサーカスの芸人、家族、兄弟、少女、少年などを描いた。- 1907年(明治40年)
キュビズムの記念作『アヴィニヨンの娘たち』を製作。
ジョルジュ・ブラックらと共にキュビズムを発展させる。- 1909年(明治42年)
スペインのオルタ・デ・エブロに旅し、セザンヌ的な風景画を描いた。
- 1912年(明治45年/大正元年)
モンパルナスへ移る。
<総合的キュビスムの時代>-装飾性と色彩の豊かさが特徴で、ロココ的キュビスムとも呼ばれる。このころ、新聞紙や壁紙をキャンバスに直接貼り付けるコラージュ技法を発明したが、これはマルセル・デュシャンのレディ・メイドの先駆である。- 1916年(大正5年)
パリ郊外モンルージュに移る。
- 1918年(大正7年)
オルガ・コクローヴァと結婚。パリ、ラ・ボエシーに移る。
<新古典主義の時代>-古典的で量感のある母子像を描いた。- 1920年(大正9年)
『プルチネルラ』の衣装を製作。新古典主義時代。
- 1922年(大正11年)
コクトーの『アンティゴーヌ』の装置、衣装を担当。
- 1925年(大正14年)
<シュルレアリスム(超現実主義)の時代>-化け物のようなイメージが描かれた時期で、妻オルガとの不和が反映していると言われる。代表作は『ダンス』『磔刑』など。
- 1928年(昭和3年)
彫刻に専心。
- 1930年(昭和5年)
『ピカソ夫人像』がカーネギー賞を受賞。
- 1934年(昭和9年)
スペインへ旅行、『闘牛』連作を描く。
- 1936年(昭和11年)
人民戦線政府の依頼によりプラド美術館長に就任。
- 1937年(昭和12年)
ゲルニカ作成。パリ万博スペイン館にて発表する。
<ゲルニカの時代>-コンドル軍団のゲルニカ爆撃を非難した大作『ゲルニカ』および、そのための習作(『泣く女』など)を描いた。- 1939年(昭和14年)
ニューヨーク近代美術館で個展、『アンティーブの夜漁』を描く。
- 1944年(昭和19年)
パリ解放後最初のサロン・ドートンヌに戦争中に製作した80点の作品を特別展示。フランス共産党入党。
- 1945年(昭和20年)
ロンドン、ブリュッセルで個展。
- 1952年(昭和27年)
『戦争と平和』のパネルを制作。
- 1953年(昭和28年)
この年より晩年まで、版画や素描を自己表現的なテーマに集中して制作。
版画の『347シリーズ』等多くの作品を生んだ。
リヨン、ローマ、ミラノ、サンパウロで個展。- 1954年(昭和29年)
ジャクリーヌ・ロックと共同生活を始める。
- 1955年(昭和30年)
南フランスの陶芸の街、ヴァロリスに移り住む。
- 1958年(昭和33年)
『イカルスの墜落』製作(パリ、ユネスコ本部)。
- 1964年(昭和39年)
日本、カナダで回顧展。
- 1966年(昭和41年)
パリ グラン・パレ、プティ・パレで回顧展。
- 1967年(昭和42年)
シカゴで巨大彫刻『シカゴ・ピカソ』公開。
- 1968年(昭和43年)
<晩年の時代>-油彩・水彩・クレヨンなど多様な画材でカラフルかつ激しい絵を描いた。このころ、自画像も多く手がけている。
- 1970年(昭和45年)
アヴィニョン法王庁で140点の新作油絵展。バルセロナのピカソ美術館開館。
- 1973年(昭和48年)
4月8日(日)、南フランスのムージャンの別荘で逝去。享年91歳。