ルーチョ・フォンタナ
アルゼンチン生まれでイタリアを拠点に活動した20世紀を代表する前衛芸術家である。絵画・彫刻を越える空間概念を追求し、キャンバスに切り込みを入れる「スパッタトゥーラ(切断)」や穴を開ける「ブーフォリ」などの手法で独自の造形世界を開いた。これらの切れ込みや穴は、絵画の平面性を破壊し、空間と時間、存在の次元を問い直す象徴となっている。戦後美術の一大潮流である空間主義の旗手として、抽象表現だけでなく彫刻・建築・インスタレーションに大きな影響を与えた。フォンタナの作品は、視覚と空間の交差点に立つ革新的な美術表現として現在も高く評価されている。
ルーチョ・フォンタナのデータ
- 性別
- 男性
- 出身地
- アルゼンチン
- 誕生日
- 1899年(明治32年) 2月19日(日)
- 歿日
- 1968年(昭和43年) 9月7日(土)
- メイン・テーマ
- 抽象画
- 現代美術
ルーチョ・フォンタナの略歴
- 1899年(明治32年)
2月19日(日)、アルゼンチンのサンタフェ州のロサリオで、イタリア人の父、ルイージ・フォンタナ(1865-1946)と、イタリア系アルゼンチン人の母、ルチア・ボッティーニのもとに生まれる。父は商業的な建築装飾、彫刻の仕事をしていた。
- 1905年(明治38年)
父とともにイタリアに移住し、父の親戚の家があったヴァレーゼで幼年期、青年期を過ごした。
- 1910年(明治43年)
ヴァレーゼのビュウモ・インフェリオーレの小学校に通った後、3年間ミラノ県のセレーニョにある技術専門学校に通い、美術の基礎を学んだ。
- 1921年(大正10年)
家族とともにアルゼンチンへ移住する。その後、父の工房である「フォンタナ・イ・スカラベリ」で数年間、家業の手助けをした。
- 1924年(大正13年)
ロサリオのエスパーニャ通り565番に初めてのアトリエを持つ。国立リトラーレ大学医学部のパストゥール記念レリーフのためのコンクールで受賞したことがきっかけとなり、芸術彫刻に興味を持ちはじめた。
- 1926年(大正15年/昭和元年)
ロサリオのサロン<ネクサス>に石膏彫刻《レトラート》を出品、彫刻部門の奨励賞を獲得する。
- 1927年(昭和2年)
ホアナ・エレナ・ブランコの記念碑を市の墓地に作る。
- 1930年(昭和5年)
第17回ヴェネツィア・ビエンナーレに参加。
ミラノで初の個展を開催。
この当時は、抽象彫刻やセラミックスの作品を多く手がけた。- 1935年(昭和10年)
パリのアプストラクシオン=クレアシオン(抽象=創造)運動に参加。
- 1939年(昭和14年)
アルゼンチンに移住。
- 1946年(昭和21年)
ブエノスアイレスで『白の宣言』を発表。
『規定に関する提言——空間宣言』に「ルーチョ・フォンタナは1946年に、当時住んでいたブエノスアイレスにおいて、空間運動を設立し、彼の支持者のグループとともにスペイン語の『白の宣言』と名づけられた第一宣言に署名した- 1947年(昭和22年)
ミラノに戻る。『空間主義の第一宣言』を発表。この際に初めて、「空間主義」という言葉が使用される。
- 1949年(昭和24年)
代表作の《空間概念》シリーズの製作を始める。
- 1951年(昭和26年)
ネオン管を用いた環境芸術作品を制作し、ミラノのトリエンナーレ会場の天井に展示する。「技術宣言」発表。
- 1966年(昭和41年)
第33回ヴェネツィア・ビエンナーレで大賞を得る。
- 1968年(昭和43年)
ミラノを去り、ヴァレーゼ市近郊のコマッビオへ移住。
9月7日(土)、心臓の疾患により死去。