アール・ヌーヴォー様式を代表するグラフィックデザイナー。宗教的思想に裏付けられた文学的解釈、それを美へと昇華する芸術力。挿画本分野において、ミュシャは独自の、そして輝かしい業績を残している。世界的にも、1960年代以降のアール・ヌーヴォー再評価とともに、改めて高い評価を受けている。
- 性別
- 男性
- 誕生日
- 1860年7月24日(火)
- 歿日
- 1939年7月14日(金)
- 受章
- レジオン・ドヌール勲章
- 主な所蔵美術館
- Mucha meseum
- 堺市立文化館アルフォンス・ミュシャ館
年 | 主な出来事 |
---|---|
1860年万延元年 |
7月24日、チェコ東部モラビア地方南部の寒村イヴァンチツェに生まれる。 |
1871年明治4年 |
聖ペテロ教会の聖歌隊員となり、その奨学金でブルノの中学に通う。 |
1873年明治6年 |
雑誌「モテツト」の表紙を描く。 |
1874年明治7年 |
声変わりにより聖歌隊を退団。そのため奨学金も打ち切られ中学を除籍となる。イヴァンチツェに戻り、父の手引きで裁判所の書記の仕事につく。 |
1879年明治12年 |
プラハ芸術アカデミーの入試に落ち、舞台装置や緞帳を作っているカウツキー・ブリオシ・ブルクハルト工房の求職に応じウィーンに移る。 |
1882年明治15年 |
リング劇場の焼失で職を失い、ウィーンを去りミクロフ(チェコ)に移る。 |
1883年明治16年 |
クーエン・ベラン伯爵と出会い、フレスコ画制作の依頼を受ける。以降、伯爵と弟のエゴン伯爵の援助を受けるようになる。 |
1884年明治17年 |
クーエン伯爵の援助を受けて、ミュンヘンの美術アカデミーに入学。 |
1888年明治21年 |
パリに出て、アカデミー・ジュリアンに学ぶ。 |
1889年明治22年 |
アカデミー・コラロシュに学ぶが、クーエン伯爵の自殺により援助を打ち切られる。 |
1891年明治24年 |
ゴーギャンやストリンドペリと出会う。 雑誌の挿絵を描く。 |
1892年明治25年 |
セニボス著「ドイツの歴史」の挿絵を担当。 |
1894年明治27年 |
偶然の出会いにより、サラ・ベルナール主演の恋愛劇「ジスモンダ」のポスターを制作。大変な好評を博し、一躍時代の寵児となる。 |
1895年明治28年 |
サラ・ベルナールと6年間のポスター契約を結ぶ。 |
1896年明治29年 |
サロン・デ・サン展のポスターを描き、ロートレックらと共に出品。 |
1897年明治30年 |
サロン・デ・サンにて個展。 ラ・ブルユム誌ミュシャを特集。 |
1900年明治33年 |
パリ万国博覧会が開催、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ館の装飾を担当。 |
1901年明治34年 |
レジオン・ドヌール勲章を受章。 装飾資料集を刊行。 |
1904年明治37年 |
アメリカに招かれる。ニューヨーク、シカゴ、ボストンを訪れる。 |
1906年明治39年 |
プラハにてマリア・シティロヴァと婚礼を挙げ、アメリカに渡る。 |
1909年明治42年 |
長女ヤロスラヴァ誕生。 |
1910年明治43年 |
祖国に戻りプラハに居を構える。 スラヴ民族の歴史を綴った連作「スラブ叙事詩」の制作を開始。 |
1915年大正4年 |
長男イージー誕生。 |
1918年大正7年 |
新貨幣や切手のデザインを担当。 |
1928年昭和3年 |
「スラブ叙事詩」が完成し、プラハ市に寄贈する。 |
1931年昭和6年 |
聖ヴィタ大聖堂(プラハ)のステンド・グラス制作。 |
1936年昭和11年 |
パリの印象派美術館でミュシャ展開催。 |
1939年昭和14年 |
7月14日、プラハにて逝去。享年79歳。 |